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『正信偈』を読む(その25) ブログトップ

光に気づくということ [『正信偈』を読む(その25)]

(5)光に気づくということ

 「名声、十方に聞こえ」、「一切の群生、光照を蒙」りますと、声と光の因縁がそろって往生できることになりますが、さて「両重因縁」には後半があります。
 「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」に続いて、「能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、因ということ)にあらずば、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁(げえん)とす。内外の因縁和合して、報土の真身を得証す」とあります。
 前半では、名号が因、光明が縁となって、往生が得られるとされましたが、後半では、信心が内因、名号・光明が外縁で、この内外の因縁が合わさって往生が得られると説かれるのです。「両重」因縁と言われる所以です。「名声、十方に聞こえ」、「一切の群生、光照を蒙」ったとしても、そこに信心がなければ何にもならないということです。
 名号・光明とは本願のことですから、本願があっても信心がなければ何の意味もないということ。光というものは、それを反射するものがあってはじめてその存在を知ることができます。大気圏から宇宙空間に出ると、あたりは漆黒の闇です。その闇の中に地球がまばゆく輝いている。闇と見えるのは、太陽の光を反射するものがないからですが、地球が明るく輝いているのは、太陽の光を反射しているからです。
 声も光も向こうからやってきますから、ただそれを受けとめるだけなのですが、その受けとめがありませんと、声も光も空しい。その受けとめというのが信心に他なりません。ですから、ただ信じるだけで救われる、のです。すべて向こうからお膳立てされているのですから、こちらとしてはただそれをいただくだけでいい。ここにはしかし、微妙な、そして困難な問題が待っています。


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