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本願プラス信心、ではなく [『正信偈』を読む(その26)]

(6)本願プラス信心、ではなく

 前にもふれましたが、蓮如の時代に「十劫安心」とよばれる考えがありました。法蔵菩薩の誓願は十劫のむかしに成就したのだから、一切の衆生はそのときに救われたのだ、もう何の心配もない、というのです。ここから、どんな悪をしてもいい、というところへいくのは目に見えています。蓮如はこの考えを厳しく戒めています、そこには信心がないと。十劫のむかしに本願が成就したといっても、それをいま受けとめることがなければ、本願も空しいと。
 としますと、本願に信心が加わることによって本願が完結するということでしょうか。本願プラス信心イコール往生ということでしょうか。こうなりますと、何かおかしいぞという匂いが漂いはじめます。本願は「向こうから」だが、信心は「こちらから」、これは「賜りたる信心」という他力の根幹に抵触するのではないでしょうか。
 どう考えればいいのか。
 「名声、十方に聞こえん」とありました。そして「一切の群生、光照を蒙る」と。ここにもう答えがあります。名号は聞こえてこそ名号なのです。聞こえなければ名号は存在しません。光明は照らされてこそ光明であって、照らされなければ光明はどこにもありません。そして聞こえるということ、照らされるということが、信じることであって、それ以外に信じることはどこにもありません。
 こういうことです、本願プラス信心ではなく、本願イコール信心。名号が聞こえることが信心であり、光明に照らされることが信心なのです。散歩のときの「こんにちは」が、「こんにちは」と聞こえるだけでしたら、それはただの挨拶にすぎません。でも、それが「そのまま生きていていい」と聞こえたとき、それは「南無阿弥陀仏」なのです。そのとき本願に遇ったのです。


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