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第十七願と第十八願と第十一願 [『正信偈』を読む(その29)]

(2)第十七願と第十八願と第十一願

 親鸞自身の解説を見ますと、上の4句で「真実の行(本願名号)と、真実の信(至心信楽)によって、真実の証(大涅槃)に至る」と説かれているのが分かります。そして真実の行は第十七願に、真実の信は第十八願に、真実の証は第十一願に拠っているのです。つまり行も信も証もすべて如来からきているということ、これが一番肝心なことです。
 われらが名号を称え、われらが信楽し、われらが涅槃に至るには違いないのですが、それはすべて弥陀のはからいによるということです。
 この部分の前の14句(第2章と第3章)で弥陀の本願が名号と光明としてわれらに届けられることが述べられました。それは『教行信証』の教巻にあたります。そしてこの4句で行巻・信巻・証巻のエッセンスがほんとうに短いことばに凝縮されていますから、教・行・信・証のすべてがこの18句(法蔵菩薩因位時から必死滅度願成就まで)に約められているわけです。
 まず行と信、十七願と十八願について。
 つい先ほど、本願プラス信心ではなく、本願イコール信心だと述べました(第3章-6)。向こうに本願があり、こちらに信心があるのではなく、本願は、それに気づいてはじめて姿をあらわすのですから、本願とは本願に気づくことであり、それが本願を信じることです。したがって、本願がそのまま信心です。そして名号とは本願を六字に約めたものですから、名号がそのまま信心ということになります。
 十七願と十八願は一体です。名号が如来から回向されるとは、取りも直さず信心も賜ったということです。名号が回向されるだけで信心を賜らなければ、名号もまた回向されたことにならないのです。


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