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「きょう」と「あした」(つづき) [『正信偈』を読む(その32)]

(5)「きょう」と「あした」(づづき)

 「あした病気が治る」とたやすく信じることはできません。まして「あした救われる」などとどうして信じることができるのか。「あした救われる」と信じさえすれば、もうそれだけで「いま」を生きていく力が湧いてくるのですよ、と言われても、左様ですか、では信じましょう、というわけにはいきません。ぼくらには「あした」のことを疑う癖がついているのです。
 ですから「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」(『歎異抄』第2章)と言うしかありません。「あした」浄土へ往くことができるのか、はたまた地獄へ行くことになるのか、なんてことは分からないのです。
 ではどうして親鸞は「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(同)と言うのか。それは「いますでに救われている」からに他なりません。「いますでに救われている」から「あした救われる」と信じることができるのです。
 しかし、こんなふうに言いますと、いくつもの疑問がどっと押し寄せることでしょう。「いますでに救われている」とはどういうことか。いま現に救われていないから、「あした救われる」ことに希望を託するのではないのか。それに「いますでに救われている」なら、どうして「あした救われる」ことを信じる必要があるのか。もう救われているのだから、それで十分ではないのか、などなど。
 「いますでに救われている」と「あした救われる」。同じ「救われる」ということばながら、そこには微妙な意味の違いがあります。


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