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幸福な人は何が起ころうと幸福である [『正信偈』を読む(その33)]

(6)幸福な人は何が起ころうと幸福である

 「いますでに救われている」からといって、苦しみや悲しみから抜け出ているわけではありません。日々、さまざまな悩みをかかえて暮らしています。でも「聞其名号、信心歓喜(もんごみょうごう、しんじんかんき、その名号を聞き、信心歓喜せん)」の瞬間、「あゝ救われた」と感じます。
 この救いは「安心(仏教では“あんじん”と読みます)」と言いかえることができます。ぼく流に言いますと、「このまま生きていていいのか」という重い問いをかかえているとき、思いもかけず「そのまま生きていていい」という答えが返ってきたときの何ともいえない「安堵感」です。
 ヴィドゲンシュタインという哲学者は「幸福な人は何が起ころうと幸福であり、不幸な人は何が起ころうとも不幸である」という趣旨のことを言っていますが、ここで「幸福な人」とは「安心」を得た人であり、「不幸な人」というのは「安心」のない人でしょう。  
 「安心」を得た人は、自分を取り巻く状況がどんなに悲惨でも(津波であらゆるものを失った人を思い浮かべてください)、それに耐える力を持っているはずです。しかし「安心」のない人は、どんなに人のうらやむ境遇にあっても(宝くじに当ったことを思い浮かべてください)、こころに空洞をかかえているのではないでしょうか。
 「安心」を得た人は、どんなに悲惨な境遇にあっても、それを生き抜く力を持っていると言いましたが、それは「いつかきっといまの苦しさ、悲しさから抜け出せる」という希望があるということです。それが取りも直さず「あした救われる」と信じることに他なりません。
 もし「いますでに救われている」という「安心」がなければ、「いつかきっとこの悲惨な境遇から抜け出せる日がくる」という希望を持ち続けることはできません。「あした救われる」と信じ続けることはできません。やはり、「いますでに救われている」から「あした救われる」と信じることができるのです。


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