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『正信偈』を読む(その34) ブログトップ

「いま」は「すでに」 [『正信偈』を読む(その34)]

(7)「いま」は「すでに」

 未来は現在においてしかないということを見てきましたが、もう一つ言わなければなりません。過去もまた現在においてしかないということです。
 これまで「いますでに救われている」という言い方をしてきましたが、この言い回しにそれがもう示されています。「いま」の中に「すでに」が含まれているのです。「そのまま生きていていい」という声が聞こえたのは「いま」です。でも、聞こえたときに救われるのではありません。そのときには「もうすでに」救われているのです。「もうすでに」救われていることに「いま」気づいたのです。「もうとっくのむかしに」救われているのに、これまでそれに気づかずにいたが、「いま」そのことに気づいたのです。
 「もうすでに救われている」ことは「いま」始まるのです。
 もう一度、蓮如の時代に「十劫安心」という考えがあったということを思い起こしたい。弥陀の本願は十劫のむかしに成就したのだから、もう一切衆生は救われているのだというのです。蓮如はその考えを「そこには信心がない」と厳しく退けたのですが、それをぼくなりに解釈しますと、この「十劫安心」の考えでは、過去が単なる過去として現在から切り離されていて、十劫のむかしのことが「いま」始まっていないのです。十劫のむかしに本願は成就した、ゆえにもうすでに救われている、と頭で推論しているだけで、「もうすでに救われている」という声が聞こえているわけではありません、その声が聞こえて本願が「いま」始まるのに。
 「あした救われる」ことは「いま救われている」から信じられるのですが、「いま救われている」ということは「もうすでに救われている」ことに他なりません。こうして未来は現在に含まれており、過去もまた現在においてあるということになります。過去があり、現在があり、未来があるのではありません。過去も未来も現在の深さの中にあるのです。

            (第4章 完)

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