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本願のリレーにははじまりがない [『正信偈』を読む(その37)]

(3)本願のリレーにははじまりがない

 さてしかし、このリレーはどのようにして始まったのでしょうか。『無量寿経』によりますと、もちろん法蔵菩薩が一切衆生を救いたいという誓いを立てられたところから始まります。ここに本願が始まる。しかし、言うまでもないことですが、法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏となったのが最初の仏ではありません。現に法蔵菩薩は世自在王仏の説法を聞き「心に悦予(えつよ、喜び)を懐」いて王位を捨て出家したのです。法蔵菩薩は世自在王仏の思いを受け継いだのです。
 そして世自在王仏の前にも無数の諸仏がおられた。としますと、法蔵菩薩の誓願とは言うものの、法蔵菩薩から始まるわけではなく、はるかな昔から受け継がれてきたリレーのバトンを法蔵もまた受け継いだに過ぎないとも言うことができます。先ほど、釈迦は「われ、かくのごとく聞けり」と語ったのだと言いましたが、法蔵もまた「われ、かくのごとく聞けり」と語ったのです。
 「我聞如是」はどこまでも遡るということですが、これはしかしどういうことを意味するのでしょう。
 本願に始まりがないということは、本願はいつでもどこでも始まるということです。それは、あるときどこかで始まり、そしてそのまま存在し続けているのではなく、誰かがそれを聞いたところで始まり、それがまた誰かに受け継がれていくという形でしか存在しないということです。本願はリレーとしてしか存在しないのです。
 そして、リレーというのは、バトンを受け継ぐ人がいなければ、その時点で終わってしまいます。ですからリレーは「いま」しかありません。本願は「いま」始まるから、「これまで」も始まり「これから」も始まるのです。反対に、「いま」始まらなければ、「これまで」も始まらないし「これから」も始まりません。
 過去も未来も現在の深さの中にあるのです。


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