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『正信偈』を読む(その42) ブログトップ

矛盾ということ [『正信偈』を読む(その42)]

(2)矛盾ということ

 しかし矛盾があるところに真理があるはずがありません。いや、矛盾があれば、もうたちどころに退場を命じられます。たちどころに、というのは、経験に照らして調べてみるまでもなく、という意味です。
 「この矛はどんな盾も貫く」と誰かが言うとき、それが真かどうかは調べてみなければ分かりません。しかし、その人が同時に「この盾はどんな矛も跳ね返す」と言いますと、もう何を調べる必要もなくその人の言っていることは偽であることが明らかになります。「この矛はどんな盾も貫く」と「この盾はどんな矛も跳ね返す」のそれぞれが真であるか偽であるかは調べなければ分かりませんが、その二つを同時に言いますと、調べる必要もなく偽であることが明らかです。
 それをちょっと難しく言いますと、「矛盾した命題はアプリオリに(経験に先んじて)偽である」となります。「煩悩即菩提」は「丸は四角である」と同じくらい矛盾していますから、アプリオリに偽であると言わなければなりません。としますと、浄土の教えを含む大乗仏教そのものがアプリオリに偽となるのでしょうか。とんでもありません、ぼくらはそこにしみじみとした真実を感じるのですから。どう考えればいいのでしょう。
 ぼくらはものごとを考えるとき、常にそれは真であるか偽であるかの判断をしています。事実に合致していれば真、合致しなければ偽です。この判定ができなければ、すぐさま生死の危険にさらされます。「この茸は食べられる」という判断が真であるか偽であるかはいのちに関わります。真偽の判断は人間だけの能力ではありません。どんな原始的な生命といえども真偽の判断を迫られます。これは食べられるかどうかの判定を下さなくてはならないのですから。その判断を誤れば、つまり偽の判断を下せば、たちどころに死が待っているのです。


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