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煩悩即菩提 [『正信偈』を読む(その43)]

(3)煩悩即菩提

 真偽の判断は、こちらから何かを掴み取ろうとするとき、必ずしなければならないことであり、それは事実に合致するかどうかで判定されます。しかし、向こうから何かに掴み取られたときはどうでしょう。真か偽かを判断するということは、こちらに掴み取った知識があり、向こうに事実があって、両者を照らし合わせるということですが、何かに掴み取られたときは、その何かと自分は一体となっています。したがって、そこではもはや真も偽もないと言わなければなりません。
 さて「煩悩即菩提」です。
 もし、ぼくらがこちらから「煩悩即菩提」を掴み取ったとしますと、それはアプリオリに偽であると言わなければなりません。それは明らかな矛盾ですから、たちどころに退場を命じられます。しかし、ぼくらが「煩悩即菩提」に掴み取られたとしますと、それはもはや真であるか偽であるかという位相を超えています。真であるか偽であるかを言う場所にいないということです。しかし「煩悩即菩提」に掴み取られるとは、いかにも珍妙な言い回しと言わざるをえません。
 そこで浄土の教えでは「本願名号が聞こえる」という言い回しをするのです。
 「能く、一念喜愛の心を発すれば」とは、向こうから本願が聞こえてきて、それに掴み取られ、こころに喜びが満ち溢れるときということでしょう。本願がこころにしみとおったときは、もう喜びが溢れるばかりです。『無量寿経』はその瞬間を「聞其名号、信心歓喜(もんごみょうごう、しんじんかんき)」と表現していました。この信心歓喜は菩提に他なりません。どんなに矛盾したもの言いに聞こえようと、この「やれ、うれしや」の思いは菩提以外の何ものでもありません。だから「煩悩を断ぜずして涅槃をう」ということばが出てくるのです。


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