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みんな斉しく「そのまま生きていていい」 [『正信偈』を読む(その48)]

(8)みんな斉しく「そのまま生きていていい」

 それはそうだが、人のいのちには軽重がないよ、と言われるでしょうか。でも、残念ながら、ぼくらは最終的には己のいのちを取り、他のいのちを捨てざるを得ません。津波に飲み込まれたとき、助かろうとして、しっかりつないでいた母親の手を放してしまったという悲嘆の声をどれだけ聞いたことでしょう。
 としますと、「どんな人もみんな斉しい」などということはない、と言わなければならないのでしょうか。
 いえ、決して。「衆水、海に入りて一味なるがごとし」です。本願の海に入ればみな斉しいのです。これまで、本願の海に入らせてもらっても、何も変わらないと言ってきました。本願を聞かせてもらい信心歓喜しながら、今までと同じように、人と比べては、やれ勝ったとほくそ笑み、やれ負けたと悔しい思いをしています。でも、ひとつだけ斉しいものがあります。「安心」です。
 こればかりは「凡聖、逆謗」みな斉しい。本願の海に入ることができ、安心を得た瞬間を思い起こしてみますと、そこには「こんな自分が」という思いがあります。「こんな自分が、このまま生きていていいのだ」という喜びです。「こんな自分が、このまま生きていていい」のなら、もう誰でも「そのまま生きていていい」はずです。みんな斉しく「そのまま生きていていい」のです。
 親鸞は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言いましたが、これは五劫思惟の願は「こんな自分」のためにあるのだという喜びのことばです。「こんな自分」のためにあるのなら、それはみんなのためにあるはずです。親鸞一人のためにあるからこそ、みんなのためにあるのです。
 「五劫思惟の願は、こんな自分(悪人)のためにあるのだから、みんなのためなのは当然だ」と言うのは、ちょっと見ると「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」に反するような印象を与えるかもしれませんが、「よくよく案ずれば」きっかり同じことを言っているのが分かります。本願海は「こんな自分」を助けようとしてのものなのです。

            (第6章 完)

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