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知行合一 [『正信偈』を読む(その52)]

(4)知行合一

 王陽明に「知行合一」という考え方があります。知ることと行うことはひとつだというのです。ほんとうに知ることができれば、おのずと行いを伴うということです。
 ぼくも教師時代によくこの言葉を持ち出して高校生たちに言ったものです、「きみたちは勉強しなきゃいけないことは分かっているんだけど、つい遊んじゃうと言うが、つい遊んじゃうのは、勉強しなきゃいけないことをほんとうには分かっていないからだ。身に沁みて分かれば、おのずと勉強するものだよ」と。
 いまの場合でしたら、「ゆるせない」と思うことが不幸の原因であると腹の底から分かれば、おのずとゆるせるようになるということです。それが身に沁みて分かっていないから、ゆるせないのだと。しかし、この場合、ほんとうにそうでしょうか。
 釈迦も苦しみの原因は煩悩にあると言いましたが、それが分かったからといって、煩悩を抑えることができるわけではないでしょう。煩悩というのは、それほどヤワなものではありません。怒りという煩悩はぼくらに苦しみをもたらすことは、これまでの経験から分かっています。でも、それが身に沁みて分かったからといって、怒りを鎮めることはできるわけではありません。気がついたら、もうすでに怒りの発作に襲われているのです。
 このあたりにスピリチュアルとの分岐点があるようです。
 河合隼雄さんはオウムに入っていった若者たちを評して「彼らは煩悩を抱きしめることができなかった」と述べましたが、言いえて妙だと思いました。オウムの若者たちは、そして多分スピリチュアルの人たちも、煩悩を克服できると勘違いしているのです。煩悩を克服するとはどういうことでしょう。それは生きるのをやめることです。生きるとは「貪り」や「怒り」や「愚痴」に、「煩い悩む」ことに他ならないのですから。ぼくらにできるのは、煩悩を克服することではなく、せいぜいそれを抱きしめることです。
 

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