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煩悩を抱きしめる [『正信偈』を読む(その53)]

(5)煩悩を抱きしめる

 前に「貪りや愛欲、怒りや憎しみとともにある救い」と言いましたが(2)、それが「煩悩を抱きしめる」ということです。
 しかし煩悩を抱きしめることがどうして救いになるのかという疑問が残るかも知れません。それは雲や霧に覆われた曇天がどうして救いのイメージになるのかというのと同じです。これは前章で取り上げた「煩悩を断ぜずして涅槃を得」と同じ問題ですが、別の角度から改めて検討してみましょう。
 「摂取の心光」と「貪愛瞋憎の雲霧」、両者は相容れない関係に見えます、光は雲によって遮られるのですから。確かに、分厚い黒雲が垂れ込めますと辺りは暗くなりますし、雲ひとつない晴天の日は明るい。でも、どうして昼の空はこんなに明るいのかと考えてみますと、違ったふうに見えてきます。
 宇宙船で大気圏外に出ますと、空は真っ暗です。もちろん太陽はギラギラ輝いていますし、その光を受けた惑星たちも明るいのですが、宇宙空間そのものは真っ暗です。ところが地上から眺める空が明るいのはなぜか。答えは簡単、大気があるからです。大気中に含まれる微粒子(その中には水蒸気もあります)に太陽光が当たって散乱するから空全体が明るく輝くのです。もし地球に大気がなかったら、宇宙船から見るのと同じように、真っ暗な空に太陽や星たちが光っているのが見えるはずです。
 雲や霧も大気中の水蒸気ですから、そのお蔭で空全体が明るくなり、そして地上も空の明るさに照らしだされるのです。
 としますと、光と雲は相容れない関係ではありません。むしろ光は雲があるお蔭で地上全体を明るく包むことができるのです。「摂取の心光」と「貪愛瞋憎の雲霧」も同じでしょう。本願の光は煩悩の雲があるからこそ明るく輝くのです。誤解のないように大急ぎで付け加えますが、本願の光は煩悩の雲があろうとなかろうと、十方世界を隈なく照らしています。それは間違いありません。でも煩悩の雲がありませんと、本願の光は反射するものがなく、空しく透過するしかありません。


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