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無償の贈与(つづき) [『正信偈』を読む(その59)]

(4)無償の贈与(つづき)

 親が自分の子どもにものを贈るのは、贈りたくて(子どもの嬉しそうな顔を見たくて)贈っているのですから、それをしないからといって後ろめたさを感じることはありません。ところがボランティアは、それをしていないことがどこか後ろめたいという雰囲気が漂うのはどういうわけでしょう。
 それは、ボランティアはしたくてするのではなく、しなければならないような雰囲気があり、そのことが無言の圧力を感じさせるのだと思われます。
 でもボランティアも、それをする側に「これを誰かに贈ろう」という気持ちがある限り、そこには目に見えない見返りがあります。自分も誰かの役に立っていると思える喜びです。被災者から感謝のことばをかけられたら、もうすべての苦労が報われます。としますと、これもまた交換ではないでしょうか。その意味では、ボランティアに後ろめたさを感じることはありません。被災者に贈りたくて(被災者の嬉しそうな顔を見たくて)贈っているのですから。
 ほんとうに無償の贈与であるためには、贈る側に「これを誰かに贈ろう」という意識があってはならないということを見てきました。その意識があれば交換になってしまう。しかし「これを誰かに贈ろう」と思わないような贈与なんてあるのでしょうか。それがあるのです。
 でも、それを考える前に、無償の贈与であるためのふたつ目の条件を検討しておきましょう。それは、贈られる側に「贈られるだろう」という期待のないことです。その期待があるところでは交換になってしまう。そのような期待があるということは、これまでのこちらの好意に対して見返りを求めているということですから、これはやはり交換です。


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