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邪見驕慢悪衆生 [『正信偈』を読む(その62)]

(7)邪見驕慢悪衆生

 章の最後にひと言付け加えておきたいと思うのですが、それは「信楽受持すること甚だ以て難し。難の中の難、これに過ぎたるはなし」の前に「邪見驕慢悪衆生」とあることです。これは、われらは邪見驕慢の悪衆生であるがゆえに、信心をたもつことが「難の中の難、これに過ぎたるはなし」であるように読めます。としますと、邪見驕慢の悪衆生でなければ、信心をたもつのが難しいことではないということになるのでしょうか。
 うっかりそう受け取りますと、それは親鸞の真意から外れ、「悪人正機」の思想と背反してしまいます。
 親鸞がここに「邪見驕慢悪衆生」ということばを置いたのは、『無量寿経』の「三毒・五悪段」を頭においてのことでしょう。われらはいかに三毒の煩悩にまみれ、五つの悪徳に染まっているかが説かれているところです。そのあと『無量寿経』では、結論として「それかの仏の名号を聞くことを得、歓喜踊躍し、ないし一念せん。まさに知るべし、この人、大利を得となす」と説かれます。そしてその後にこの「難の中の難、これに過ぎたるはなし」が続くのです。
 それを念頭においてこの部分を読みますと、決して邪見驕慢の悪衆生であるから「難の中の難、これに過ぎたるはなし」ではないことが了解できます。名号を聞くことを得て、歓喜踊躍するのはまさに邪見驕慢の悪衆生なのです。ああ、こんな邪見驕慢の悪衆生が弥陀の本願に遇うことができたと歓喜踊躍するのです。むしろこう言えるでしょう、己が邪見驕慢の悪衆生であることが身に沁みていない人ほど、「かの仏の名号を聞くことを得、歓喜踊躍し、ないし一念せん」ことから遠いと。
 己は邪見驕慢の悪衆生なんかではないと思う人は、何ごとも自ら手に入れようと意を固くしているに違いありません。そうしますと、思いもしない贈りものが届いていても、それに気づかないのです。すぐ目の前にあるのに、目に入らない。邪見驕慢の悪衆生であることの気づきと、「かの仏の名号を聞く」ことは別ものではないということです。これが善導の言う二種深信です。

             (第8章 完)

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