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受動形と完了形 [『正信偈』を読む(その65)]

(3)受動形と完了形

 宗教の本質は「救われる」ことにある―「宗教はどうも」と言う人は、ここですでに拒絶反応を起こします。みんなが救われるとなると「絶対的な救い主」がいなければならないが、いったいどこにいるのかと。
 しかし「あゝ、救われた」という思いは紛れもない事実として目の前にあります。親鸞は法然のことばを聞いて「あゝ、救われた」と感じた。他の人はともかく、親鸞にとって、これは天地がひっくり返っても確かなことです。だから「たとひ法然聖人にすかされまひらせて」も何の後悔もないと言いきれるのです。
 ここからすべてが始まるのですから、改めてこの事実をよく見つめてみましょう。
 まず分かるのは、この救いは「自分で与えた」のではなく、「誰かから与えられた」ものであることです。「救われた」とは「与えられた」という受動の経験です。では誰から与えられたのかとなりますが、その点を考える前に、もうひとつ「あゝ、救われた」という事実に関して言っておかなければならないことがあります。〈時制〉のことです。
 「救われる」のは現在形ではなく、現在完了形であるということ。「あゝ、救われた」という言い回しにそれがはっきり出ています。
 気がついたら「もう救われていた」のです。「あるとき救われた」という過去形ではありませんし、「これから救われる」という未来形でもありません。「いま救われた」という現在形ですが、でも救いが起こったのは「いま」ではありません。「もうすでに救われていた」ことに「いま」気づいたのです。現在完了形です。
 そして「あゝ、救われた」が受動形であることと現在完了形であることは別のことではありません。
 

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