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救いには未来形もない [『正信偈』を読む(その67)]

(5)救いには未来形もない

 未来形はどうでしょう。
 救いには未来形もありません。「おいおい、そもそも浄土の教えは未来の救いを説くのではないか」という不審が出されることでしょう。「今生で念仏すれば、来生で救われる」というのが浄土の教えだから、未来の救いがないとすると、すべてが根本から崩れるのではないかと。確かに、いま救われていないからこそ、将来救われることに望みをかけるというのが浄土の教えの基本であることは間違いありません。がしかし、そんな先のことをどうして信じられるのでしょう。
 先のことは分からないからこそ信じるんじゃないかと言われるかもしれませんが、人間分からないことをそうやすやすと信じられるものではありません。
 やはり信じていいと思えるから信じるのです。では、どういうときに信じていいとなるかと言いますと、せんじ詰めれば「騙されたってかまわない」と思えるときです。友達が必ず返すからお金貸してくれと言ってきたとき、「よし、おまえを信じて貸そう」と言えるのは、たとえ騙されたとしてもいいではないかと思えるからです。「将来救われる」ことを信じられるのも「騙されたってかまわない」と思えるからです。
 さらにどうして「騙されてもいい」と思えるかと言いますと、実は「もうすでに救われている」からです。
 ただこの「救われている」は「すべての苦しみから解放されている」ということではありません。それでは明らかな矛盾です。いま生きることに苦しんでいるから、その苦しみからの解放を求めているのです。ですから、「もうすでに救われている」とは「すべての苦しみから解放されている」ということではなく「こんな自分のまま生きていていいのだ」という安心が与えられるということです。それが「あゝ、救われた」と感じることです。
 やはり救いには現在完了形しかなく、未来形はありません。


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