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『正信偈』を読む(その73) ブログトップ

流れと淀み [『正信偈』を読む(その73)]

(3)流れと淀み

 福岡氏自身のことばではこうなります、「分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。つまり、環境は常に私たちの身体を通り抜けている。いや、『通り抜ける』という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が『通り過ぎる』べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も『通り過ぎつつある』分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて、一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである」。
 素晴らしく明快な説明です。個々のいのちは循環する流れの一時的な淀み。川の流れの中に小さな渦ができることがあります。ある場所に生まれた渦が一定の時間かろうじて形を保っていますが、何らかの条件が変わると、その渦は形を失い、また無定形の流れになってしまう。これがいのちだとしますと、まさに「空」ではないでしょうか。実体としては何もありません。絶えざる物質の流れが作り出す淀み、あるいは渦にすぎないのですから。このイメージはぼくの脳を大いに刺激してくれます。
 本願のリレーということを述べました。本願が人から人へ次々とリレーされていく。先ほどは川の流れでイメージしましたが、今度は風の流れを思い浮かべてみましょう。その風は「南無阿弥陀仏(そのまま生きていていい)」の声を運んでいくのですが、ところどころで渦ができます。それがぼくら一人ひとりです。こうして外からやってきた風はぼくらに「南無阿弥陀仏」を届けてくれ、また外へと去っていく。これが本願のリレーで、どこで始まりどこで終るということなく、絶えず流れているのです。


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