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歓喜地 [『正信偈』を読む(その75)]

(5)歓喜地

 「出家のための仏教」から「在家のための仏教」への変化は、また「悟りをえる仏教」から「救われる仏教」へと変わることです。「自分が悟りをえる仏教」から「みんなが救われる仏教」へ。
 龍樹はこうした大乗運動の中で「みんなが救われる仏教」として浄土の教えを説いたと考えることができます。いや、大乗運動のうねりが龍樹の口から浄土の教えを説かしめたと言うべきでしょうか。
 さて、救いが定まった境地は「歓喜地」とよばれます。
 龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』にこうあります、「問ていはく、初地なんがゆへぞなづけて歓喜地とするや。こたへていはく、初果の究竟(くきょう)して涅槃にいたることをうるがごとし。菩薩この地をうれば心つねに歓喜おほし」と。
 「初地」とは菩薩道の最後の階梯である「十地」の第一段階(菩薩道には五十二位ありますが、その第四十一位に当ります)ということですが、ここに至れるかどうかで天地の開きがあります。ここまできますと「究竟して(最終的には)涅槃にいたる」ことができるからです。そしてどんなに「睡眠懶惰(すいめんらだ、眠りこけたり怠けたり)なれども」もうその位から転げ落ちることはないからです。親鸞にいわせれば、この位が正定聚不退転です。
 「こんな自分がそのままで救われるのだ」と確信できたのですから「心つねに歓喜おほし」です。だから「歓喜地」です。まだ涅槃に至った訳ではありません、それはまだはるか彼方です。でも、必ずそこに至れると思えたら、もう涅槃に至ったのとひとしいではありませんか。
 

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