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二三渧のごとき心おほきに歓喜せん [『正信偈』を読む(その76)]

(6)二三渧のごとき心おほきに歓喜せん

 さて、この歓喜地について龍樹は次のような譬えで説いています。「一毛をもて百分となし、一分の毛をもて大海水を若しくは二三渧(てい)分取するが如し、苦のすでに滅するは大海水の如く、余の未だ滅せざるは二三渧の如し。心おほきに歓喜せん」と。
 髪の毛を百分してその一本で大海の水を分かち取るとしよう。すでに消滅した苦しみは大海の水のようで、まだ残っている苦しみはその毛で分かち取った二三滴に過ぎないのだ、何と喜ばしいことではないか、と言うのです。
 ところが親鸞はその文を次のように読みます。「一毛をもて百分となして、一分の毛をもて大海のみづをわかちとらんがごとし。二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心おほきに歓喜せん」と。
 先ほどとは反対に、消滅した苦しみは毛で分かち取った二三滴に過ぎず、ほとんどすべての苦しみはこれまでどおり大海の水のように残っている。しかしその二三滴のような心が嬉しいではないかと言うのです。
 誤読かもしれませんが、親鸞にはそうとしか読めなかったのでしょう。本願が聞こえてきても、これまでと同じように、さまざまな苦しみが押し寄せてきます。でもそこにたった二、三滴の喜びが加わった。「こんな自分がそのまま生きていていいのだ」という喜びです。
 『行巻』にこんな話が引かれています。人を狂わせるほど臭い伊蘭(いらん)の林に、たった一本の栴檀(せんだん)の樹が生長すると、不思議なるかな、あたり一面がかぐわしい匂いになってしまうと。伊蘭の臭い匂いが消えたわけではありません。ただ栴檀のかぐわしい匂いが加わっただけですが、それで全体がかぐわしい匂いになってしまう。同じように、苦しみの海に二、三適の喜びが加わっただけで、全体が喜びの海になってしまう。それが「歓喜地」だと親鸞は読んだのです。

            (第10章 完)

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