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自然ということ [『正信偈』を読む(その79)]

(3)自然ということ
 
 『末燈鈔』の第5通に出てくる有名な文章(自然法爾章と呼ばれます)です。ちょっと長いですが、引いておきます。
 「自然(じねん)といふは、自はをのづからといふ。行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾(ほうに)といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、おほよす(およそ)行者のはからひのなきをもて、この法の徳のゆえにしからしむといふなり。すべてひとのはじめてはからはざるなり。このゆへに義なきを義とす、としるべしとなり。自然といふは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝてさふらふ」。
 ほとんど同じものが『正像末和讃』の末尾にも収められていまして、どうやらこれは親鸞が弟子に宛てて書いた手紙ではなく、弟子(下野・高田の顕智)が親鸞から直に聞いたことばを書き記したもののようです。道理で繰り返しが多いわけです。そのとき親鸞86歳といいますから、最晩年の円熟したことばと言っていいでしょう。親鸞の言いたかったことの核心部分がここにこめられていると言っていいと思います(だからこそ『正像末和讃』のなかに書き留めたのでしょう)。
 「自然」とは「おのずからしからしむ」ということ、「行者のはからひにあらず」ということです。自然ということばは今も「ドアが自然に開いた」というふうに使います。こちらがそうしようと思ってのことではなく、勝手にそうなったということです。さてしかし、ここにまたしても落とし穴がまっています。


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