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〈ための〉念仏 [『正信偈』を読む(その82)]

(6)〈ための〉念仏
 
 浄土に往生するために念仏するのではなく、もう往生することに定まったことに感謝して念仏するのだというのですが、ここでも一歩誤れば落とし穴にはまってしまいます。「はからい」の念仏になってしまう危険があるのです。恩を報ずる〈ための〉念仏となりますと、これまた往生の〈ための〉念仏と変わるところがないのではないでしょうか。
 正直言いまして、ぼくのような宗門外の人間にとって、お寺でみんなが一斉に独特の節回しで念仏を称えるというのがどうにも苦手です。外部の人間が宗門の長い伝統についてとやかく言うことはないと思いながら、あれが「信心歓喜、乃至一念」の念仏だろうかと疑問を感じてしまうのです。
 報恩の〈ための〉念仏となりますと、まず「信心歓喜」があり、しかる後にその恩を報ずる〈ための〉「乃至一念」があるということです。「信心歓喜」と「乃至一念」との間に隙間ができ、そこに「はからい」が入り込むのです。しかし、「信心歓喜」がそのまま「乃至一念」であるような念仏が「自然に」の念仏ではないでしょうか。本願を聞かせてもらえたその喜びがそのまま声となった念仏。
 そのとき、信心と念仏は一体で、その間に隙間は全くありません。
 先回は信心(憶念)と必定との間に隙間がないと言いました。本願が聞こえてきたそのときに必定に入るのでした。そして信心と念仏との間にも隙間がありません。こうして信心と念仏と必定の三つが一体で全く隙間がないということになります。信はそのまま行であり、そしてその信と行がそのまま証であるということ。
 「そのまま」ということ、あるいは「隙間がない」ということを「本願を生きる」ということばを手がかりに、もう少し考えてみましょう。


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