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『浄土論』 [『正信偈』を読む(その87)]

(4)『浄土論』

 親鸞が『浄土論』を引くとき、その注釈書である曇鸞の『浄土論註』からの引用であることが多い。親鸞は『論註』の眼を通して『浄土論』を読んでいると言えます。しかもその『論註』を親鸞流に読みますから、もとの『浄土論』はかなり換骨奪胎されていると言わなければなりません。『正信偈』ではさらにそれを短い偈文の中に収めていますから、非常に分かりにくくなってきます。
 まず「無碍光如来に帰命したてまつる。修多羅(経)に依りて、真実を顕わして、横超の大誓願を光闡す(明らかにする)」とかぎかっこで括った部分ですが、これは『浄土論』の冒頭の文章を親鸞流に大胆に約めているのです。これはしかしよく分かります。問題は次の「広く本願力の回向に由りて、群生を度せんがために、一心を彰(あらわ)す」という文です。
 この文の主語は何でしょう。先の文は「わたし(天親)」が主語ですから、これも天親が主語と考えるのが自然ですが、さてそうしますと「群生を度せんがために」がひっかかります。「群生を度する」ときますと、これはやはり阿弥陀仏と考えざるをえません。しかし「一心を彰」したのは天親です。どうもわけが分かりません。
 しかし、このわけの分からないところにこそ真実が潜んでいるのです。
 天親は『浄土論』冒頭で「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて」と言っていますが、この「一心」とは何か。もちろん「ふたごころなく」ということです。「一心に本を読む」と言います。よそごとに気を取られることなく、集中して本を読むということです。しかし、ぼくらはほんとうに一心になれるでしょうか。一心に本を読んでいるつもりでも、何かおいしそうな匂いがしてきたらすぐ気が散ります。「寝食を忘れて」と言いますが、それはあくまでことばの上で、ほんとうに寝食を忘れることなどできるはずがありません。


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