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「おまえの煩悩はわたしが荷おう」 [『正信偈』を読む(その93)]

(4)「おまえの煩悩はわたしが荷おう」

 「大会衆の数に入る」とは、本願に遇うことができ正定聚の数に入ることですから「いま、ここ」だとしても、「蓮華蔵世界に至る」とは浄土に往生して成仏することですから「いま、ここ」というわけにはいきません。「今生の正定聚・来生の仏」は浄土の教えのイロハでしょう。
 「いま、ここ」で浄土へ往生でき仏となれるなどと言いますと、「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この條、もてのほかのことにさふらふ」(『歎異抄』第15章)と唯円さんに一喝されてしまいます。しかし、「いま、ここ」の救いとは別にもうひとつの救いがあって「段階を追って」救われるというのは他力の根本に抵触することはつい先ほど確認した通りです。
 どう考えればいいのでしょう。すでに第4章でこの問題を考えましたが、もう一段掘り下げたいと思います。
 改めて救いとは何かということに遡って考えてみましょう。釈迦にとって、それは生老病死の苦しみから抜け出すことでした。そこで彼はこうした苦しみのよってきたところをたずね、それを煩悩だと見定めたのです。欲を起こし、満たされればもっと欲を起こし、満たされなければ怒りを起こす。欲を起こすのは他の動物たちも同じでしょうが、われらの欲はただの欲ではありません、「ひとより多く」という欲です。「われ」と「ひと」を比較して、「少しでもひとより多く」と貪る、これが煩悩です。そしてその煩悩が苦しみを引き起こしている。
 としますと救いとは煩悩に煩わされないことです(「煩い悩む」から煩悩であって、そうでなければ煩悩などどこにもありません)。ですから「一切衆生を救おう」という弥陀の本願は「一切衆生を煩悩に煩わされないようにしてあげよう」ということです。そこから弥陀の本願をこう言い換えてもいいでしょう、「一切衆生の煩悩はわたしが荷おう」と。


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