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「そと」でもなく「なか」でもなく [『正信偈』を読む(その98)]

(9)「そと」でも「なか」でもなく

 親鸞のことばが浮かびます、「しかるに末代の道俗、近世(こんせ)の宗師、自性唯心(じしょうゆいしん)にしづんで、浄土の真証を貶(へん)す」(『信巻』序)と。自性唯心とは、まさに、浄土はわれらの「こころ」の中にあるということでしょう。
 亡くなった人たちは「こころ」の中にいるのでしょうか。そうじゃないと答えたくなります。亡くなった人はむしろ「こころ」の外にいるように思えます、例えば、仏壇の遺影に向かって語りかけたりしますから、そのあたりにいるのではないか。でも遺影そのものが亡くなった人でないのは言うまでもありませんから、「じゃあ、やっぱりこころの中か」と揺れ動くのですが、問題の根っこは「こころ」というもののつかみどころのなさにあります。
 そもそも「こころ」はぼくらの「なか」にあるのでしょうか。むしろぼくらの「そと」にあるのではないか。
 ともあれ亡くなった人はこの世の「そと」ではなく、だからといってこの世の「なか」でもなく、しかしどこかに確かにいます。浄土もまたこの世の「そと」でも「なか」でもなく、しかしどこかに確かにある。なぜそう言えるのかといいますと、そこからぼくらに呼びかける声が聞こえるからです、亡き人の声が聞こえるように。しかし、どこから聞こえるのかと思って、どんなに一生懸命探し回っても骨折り損です。この世の「そと」ではありませんし、かといって「なか」でもないのですから。
 往相と還相に戻りますと、「そと」でもなく「なか」でもなく、どこかから聞こえる不思議な声に聞きほれているのが浄土へ往く相、前姿です。そしてその姿を背中から見れば、娑婆に還る相、後姿です。往ってから還るのではありません、往く姿がそのまま還る姿なのです。
 「うしろすがたの、しぐれていくか」(山頭火)

            (第13章 完)

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