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曇鸞という人 [『正信偈』を読む(その100)]

(2)曇鸞という人
 
 親鸞がそれほど傾倒した曇鸞とはどういう人か、ここではそれが要領よくまとめられています。まず「本師曇鸞は、梁の天子、常に鸞の処に向いて、菩薩と礼したてまつる」の文は、曇鸞の学識、人格の高さがどれほど尊敬されていたかを示すエピソードです。当時の中国は5世紀から6世紀にかけての南北朝時代で、南半分は漢民族の王朝が次々と興っては滅び、北半分は鮮卑族という異民族が支配し北魏という国を建てていました。
 曇鸞はその北魏に生まれ、孝文帝という仏教を尊崇する皇帝の時代に育ちました(漢文化の中心である洛陽に遷都し、郊外に竜門石窟を造営したのも孝文帝です)。当時の北魏では西域の僧、鳩摩羅什(くまらじゅう)によって盛んに龍樹系の仏教がもたらされ、曇鸞も『中論』など龍樹の「空」の思想を中心に研究していたようです。その学識の高さが南朝・梁の皇帝にも知れ渡り、菩薩として尊敬されていたというのです。
 ところがそうした曇鸞にとって思いがけないもうひとつのエピソードが伝えられています。それが次の「三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して、楽邦に帰したまいき」の文です。曇鸞が病をきっかけに神仙の術を求めてはるか江南まで出かけ、その道の大家から不老長寿の仙経を伝授されたと言うのです。中国には古来神仙思想が伝えられており、それに老荘の道家思想が取り込まれて道教が成立したのがこの時代です。
 外来の仏教思想を学んでいた曇鸞が、病に直面することで中国土着の道教に先祖がえりしたということでしょうか。6世紀のわが国に仏教が入ってきたときも、古来の神々の道と新しい仏の道とが対立したり習合したりして複雑な様相を見せていきますが、曇鸞の心の中でも仏教と道教とが微妙な関係にあったのでしょう。
 しかし曇鸞はインドから来た僧、菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)に出会うことで、せっかく手に入れた「仙経を梵焼して」してしまいます。


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