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『正信偈』を読む(その102) ブログトップ

安心ということ [『正信偈』を読む(その102)]

(4)安心ということ

 まず確認しておかなければならないのは、浄土の教えも現世の利益を説くということです。「浄土へ往生するのは来世のことで、現世には関わりのないこと」では<ない>のだと繰り返し述べてきました。救いは「いま、ここ」でなければ何の意味もありません。親鸞は信巻において現生十益を上げています。「金剛の真心を獲得するものは、横に五趣八難の道をこえて、かならず現生に十種の益をう」として、その最後に「十には入正定聚の益なり」とあります。本願に遇うことができたそのとき今生において正定聚の数に入ることができる、これが現世利益でなくて何でしょう。
 問題は入正定聚の利益と不老長寿の利益とがどう違うかということです。なぜ曇鸞は「仙経を梵焼して、楽邦に帰した」のかということ。
 ぼくらは重い病気になりますと、ただこの病気が治ってくれさえすればもう他に何もいらない、と思います。この思いが切実だからこそ、世の現生利益の宗教があれほど人を集めるのでしょう。普段は「あんなの迷信だよ」と言っていながら、いざ自分が重い病気になると、神さま、仏さまとすがりつく。ぼくはこんな善男善女たちを笑うことができません。カレンダーに仏滅とか大安とかありますと、「ふん」と思いながら、こころのどこかで気にしている…。
 入正定聚の利益とは何かを改めて思い起こしましょう。「こんな自分が」と鉛のような思いをかかえているとき、「そのまま生きていていい」という不思議な声が聞こえて、喜びが腹の底から湧き上がってくる。これが「安心(あんじん)」です。この喜びと、病気平癒を神仏に祈願して、めでたく健康を恢復したときの喜びとはどこがどう違うのでしょう。喜びということでは何の違いもありません。どちらが大きいかという比較もあまり意味がないでしょう。


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