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こんな自分が [『正信偈』を読む(その103)]

(5)こんな自分が

 ぼくらはしばしば、健康がなによりと言います。あるいは家族仲よく暮らせることに勝るものはないと言います。このことばの真実を疑うことはできません。ならば健康や家族とは別にどうして安心が必要なのでしょう。
 問題は「こんな自分が」です。この思いに無縁の人は幸いなるかな。
 健康がなによりです、でも「こんな自分が健康であっていいのか」と思う。家族に勝るものは何もありません、でも「こんな自分がいい家族に恵まれていていいのか」と思う。そして結局は「こんな自分が生きていていいのか」に行き着きます。この負い目がすべてを翳らせるのです。この負い目の意識は自分の中から出てきたのではありません、どこかから突きつけられたのです、「そんなおまえが生きていていいのか」と。かくしてこの問いはトゲのように胸の奥に突き刺さったままとなります。
 この問いを自分で持ち出したのでしたら、自分で決着をつけることもできるでしょうが、そうではなく、どこかから突きつけられたのであってみれば、それに自分で答えることはできません。いや、答えてもいいですが、それは何の効力も持たないのです。「こんな自分が生きていていいのか」に対して、「そうだ、いいんだ」と何百回答えても空しいだけです。やはりどこかから「そのまま生きていていい」と言ってもらわなければトゲは抜けない。
 ここに「安心」と、その他の現世利益の違いがあります。
 「安心」は願って与えられるものではないのです。健康や家族、その他お好みのものは、自ら願わなければなりません。「求めよ、さらば与えられん」です。「叩けよ、さらば開かれん」です。しかし「安心」ばかりは願うものでも求めるものでもありません。願えば願うほど、求めれば求めるほど遠ざかるものです。それはあるとき「思いがけず」与えられているのです。

           (第14章 完)

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