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賜りたる信心 [『正信偈』を読む(その108)]

(5)賜りたる信心

 「すべて弥陀の本願力による」と言った後、「往生浄土の身と定まるのは、ただ信心によってです」と続きます。ほら、やっぱり信心だけは「わたし」の領分だ、と先の咽喉のつかえがとれるでしょうか。信心のあるなしによって往生できるかどうかが定まると言うのですから、やはり信心は「わたし」がするものだと。しかしそうしますと「往還の回向は他力による」はどうなるのでしょう。いやはや、他力によるのか、信心によるのか。やはりここが胸突き八丁でしょう。
 このアポリアを突破するものとして持ち出されるのが「賜りたる信心」です。如来から賜った信心ということで、一方では他力によると言えますし、他方ではその信心のあるなしにより往生が決まるということで、信心によるとも言えますから、何となく分かったような気になります。がしかし、ここにも思わぬ落とし穴があります。
 例えば、この家は親からもらったものだから自分のものではないと言う人も、その一方で、もらった以上は自分のものだと思っているのではないでしょうか。元々は自分のものではないが、もらった時点で自分のものになったと。同じように、「賜りたる信心」も、確かに如来から賜ったものだが、賜ってみればもう自分の信心に違いないと思っているかもしれません。
 もしそうなら、それは他力とは言えません。
 親から家をもらう場合、その親の子だからもらえたのであって、誰彼なしにもらえるものではないでしょう。ですから、自分にはもらう資格があるからもらえたのだという思いがあります。そこから、もらった以上はもう自分のものだという意識が生まれてくるのです。これは、もらったには違いありませんが、実際のところは、権利として手に入れたと言うべきでしょう。
 「賜りたる信心」の場合も、どこかに自分には賜る資格があるから賜ったのだという思いがあれば、賜ったには違いないとしても、実は、手に入れたものとなります。


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