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気づきとしての信心 [『正信偈』を読む(その109)]

(6)気づきとしての信心

 「賜りたる信心」は決定打でないと言わなければなりません。では「他力によるのか、信心によるのか」の難問を解く鍵はどこにあるのでしょう。「気づきとしての信心」です。あくまでも「他力による」が基本です。ただ、そのことに「気づく」かどうか。もし「他力による」ことに気づかなければ、他力はどこにもありません。
 念のために申し添えますが、たとえ誰かが気づかなくても、他力がなくなるわけではありません。他力は、気づかれようが気づかれまいが、そんなことには関係なく働き続けています。しかし、気づかれなければ、その人にとって他力は存在しないのです。他力(如来の本願力)は、気づかれてはじめてその働きが姿をあらわし、気づかれなければまったくのゼロです。
 この「気づき」が信心です。
 だからこそ「正定の因はただ信心なり」です。信心があってはじめて他力は姿をあらわし、その力を発揮するのです。信心がなければゼロ。しかし、ここが肝心なところですが、信心は「わたし」の手柄ではありません。信心とは他力に気づくだけです。そして、他力に気づくとは、他力に気づきがつけ加わるのではありません。
 他力に気づくとは、自分の中に他力を取り込むことではありません、反対に、他力の中に自分が取り込まれるのです。他力に気づくのは「わたし」に違いありませんが、「わたし」が他力を取り込むのではなく、他力が「わたし」を取り込むのです。
 さてしかし、このように「気づきとしての信心」は足し算ではないとしますと、ある人は気づき、ある人は気づかないということをどう考えればいいのでしょう。ある人には信心があり、ある人にはない。そして「正定の因はただ信心」だと言われます。にもかかわらず、信心は足し算ではないというのはどういうことか。如何にも不可解に思われます。


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