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ある人は気づき、ある人は気づかない [『正信偈』を読む(その110)]

(7)ある人は気づき、ある人は気づかない

 しかし考えてみますと、あるとき、ある人が、たまたまあることに気づくなんてことはザラにあるようにも思えます。その人の努力によるのでも、その人の能力によるのでもなく、どういうわけかその人にある気づきが訪れる。こんなことはよくあるのではないでしょうか。
 いや、それはおかしい、あるとき、ある人に気づきが訪れるのは、その人がそれなりの準備をしてきたからで、そうでなければ突然気づくなんてことはありえない、という反論があるかもしれません。もちろんそういう場合もあるでしょう。
 アルキメデスが風呂に入っていたとき、突然、比重の原理を思いつき、嬉しさのあまり裸のまま街を走ったという逸話が残されていますが、アルキメデスがその原理に気づくことができたのは、彼がいつも王冠の金の純度をどうすれば測ることができるかを考えていたからです。自然科学の発見の多くはそういう形でなされてきたのでしょう。その意味では決して「たまたま」ではありません。
 でも、そうした気づきは他力の気づきと似て非なるものです。比重の原理の場合は、アルキメデスがそれを自分の中に取り込んだのですが、他力の場合、他力が自分を取り込むのです。足し算の気づきと、足し算ではない気づき。足し算の気づきは、「気づく」というよりも「知る」というべきでしょう。「こちらから」何かを会得するのです。それに対して、足し算ではない気づき、他力の気づきは、「向こうから」やってきたものに突然引っさらわれるのです。
 どうしてある人が引っさらわれ、ある人は引っさらわれないのか。この問いに答えはありません。どういうわけか、ある人は引っさらわれ、ある人は引っさらわれない、これが他力の信です。

              (第15章 完)

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