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末法の世 [『正信偈』を読む(その112)]

(2)末法の世

 道綽も曇鸞と同じ地方(山西省)に生まれ育ちましたが、時代は曇鸞から100年ばかり後です。南北朝時代の末期に生まれ、隋を経て唐の初めにかけて生きました(562~645)。この時代は相次ぐ戦乱、それに伴う飢饉、さらには廃仏というまさに「五濁悪世」でした。道綽という人を見るとき、この時代背景を逃すことはできません。
 親鸞は『教行信証』化身土巻に『安楽集』から次の文を引いています、「当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべきみちなり」。また「もし機と教と時とそむけば、修しがたくいりがたし」と。これらのことばから道綽が鋭い時代感覚を持っていたことが分かります。どんなにすばらしい教えでも、それが時(時代)と機(人間)に相応しなかったら「修しがたくいりがたし」と言います。
 「道綽、聖道の証し難きことを決して、唯、浄土の通入すべきことを明かす」は、今は末法の世だから「聖道は証しがた」く、「ただ浄土」のみが助かる道だと言うのです。
 末法とは何でしょう。仏教に正像末史観というのがあります。釈迦入滅後の五百年は「正法」と呼ばれ、教(教え)、行(修行)、証(悟り)ともにありますが、その後の千年は「像法」と呼ばれ、教と行はあっても証はなく、さらにその後の一万年は「末法」と呼ばれて、ただ教のみがあって行も証もない。このように時代が下るとともに世の中が悪くなり、人間の資質も劣ってくると見る歴史観です。
 もはや聖道の時代ではなく、ただ浄土の教えだけが頼りだとする感覚は道綽以後、浄土教の伝統として受け継がれていくことになります。


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