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「わたし」に裂け目が [『正信偈』を読む(その115)]

(5)「わたし」に裂け目が

 もう一度「わたし」に戻りたいと思います。「わたし」とは「わたしの意志」に他ならないと言いました。「わたし」がないがしろにされるとは「わたしの意志」が無視されることで、それが耐え難いのだと。もう一歩進めますと、この意志は「ひとより強く、ひとより多く、ひとより高く」という意志です。
 ニーチェのいう「力への意志」です。
 いや、ぼくにはそんな意志はないよ、人並みで十分だ、と言われるかもしれません。なるほどそうだとしましても、しかし「ひとより弱く、ひとより少なく、ひとより低く」でないことは確かです。「おまえは、ひとより弱く、ひとより少なく、ひとより低くていいんだ」と言われたとき、「わたし」がないがしろにされたと感じないでしょうか。
 このように隅々まで「わたし」に満たされていますと、どこにも他力の入り込む余地がないように見えます。ところがあるとき、その「わたし」に裂け目が生じ、そこからふと他力の光が差し込むのです。そしてどんなときに「わたし」に裂け目が生じるのかといいますと、己の悪と対面せざるをえないときです。
 逆に言えば、己の悪をじっと見つめる機会のない人は「わたし」に裂け目が生じることもなく、したがって他力に遇うこともなく過ごすことになるわけです。念のために言っておきますが、己の悪と対面する機会はそれを自らつくることはありません。ぼくらは放っておかれれば、己の悪からいつまでも目を背けたままでいます。思いもかけずどこかから突き付けられて、やっとこさ、それに目を向けるのです。
 かくして、己の悪とともに他力の光にふと出遇うことになります。


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