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念仏を称えるということ [『正信偈』を読む(その117)]

(7)念仏を称えるということ

 仏教では身口意の三業を区別しますが、「信じる」のは意業であるのに対して「称える」は口業です。「信じる」のはこころの中のことですが、「称える」のはこころの外へ出て行かなければなりません。そこから、「信じる」ことはできるのですが「称える」となるとどうも、というためらいが生まれることになります。
 金子大栄氏は、それは慣れの問題ですよ、と言います。なるほど仏さまの前では自然と手を合わせますし、神さまの前では柏手を打ちます。これらは小さい頃からそういうものだと教えられ、身についてしまったものです。もっとありふれたことでは、何かしてもらって嬉しいときには自然と「ありがとう」ということばがでます。嬉しいと思うのはこころの中で、「ありがとう」と口にするのはこころの外ですが、このふたつはごく普通につながっています。本願を「信じる」ことと名号を「称える」ことも同じでしょうか。
 嬉しいときに「ありがとう」と言うように、本願を喜ぶときに「南無阿弥陀仏」と言えるかどうか。もうそうなっている人は問題ありません。でも、そうはいかない人はどうか。どうしても「南無阿弥陀仏」が咽喉につかえてすっと出てこない人はどうなるのでしょう。それではほんものではないということになるのでしょうか。
 こころから有り難いと思うのだけれど、「ありがとう」が出てこない人もいるでしょうが、その人の有り難い気持ちはほんものではないのでしょうか。そんなことはありません。同じように、本願が身に沁みるのだけれど、それが「南無阿弥陀仏」ということばにならないからといって、本願が身に沁みたということがまやかしだということにはなりません。
 信心があるなら念仏はおのずと伴うものだというのはいいとしても、もう一歩すすめて、信心があるなら念仏を伴わなければならない、そうでなければその信心はほんものではないというところまで行きますと、それは他力思想を狭い範囲に押し込めることにはならないでしょうか。

              (第16章 完)

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