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信じるということ [『正信偈』を読む(その119)]

(2)信じるということ

 「信心淳(あつ)からず」、「信心一ならず」、「信心相続せず」、これらが互いに絡みあうことで、南無阿弥陀仏と称えても「無明なを存してしかも所願をみてざる」こととなるのだというのです。「淳からず」とは、あるのかないのかはっきりしないということで、あやふやということです。「一ならず」とは、ああだろうか、こうだろうかと迷いがあり、一つに決まらないということです。「相続せず」とは、一時はそう思っても長続きせず、ふらふらしているということです。これが三不信で、その逆、信心が淳く、二心なく、相続するのが三信です。この三信にしてはじめて「所願を満てたまふ」というのです。
 ここで「信じる」というこころの働きを考えてみたいと思います。
 親鸞の教えは「信心為本」と言われます。信じることが根本だと言うのですが、そもそもぼくらに何かをほんとうに信じることができるものでしょうか。教師時代を思い出します。横着な生徒たちはことあるごとに言ったものです、「先生はぼくのことを信じてくれない」と。その通りです。生徒たちの言うことを鵜呑みにすることなんてできません。何か困ったことがあると、すぐ嘘をつくからです。
 彼らは小さい頃からそのようにして窮地を切り抜けることを覚えてきたのでしょう。でも、ぼくは言ったものです、「きみの言うことをそのまま信じることはできないが、きみという人間は信じているよ」と。「きみが将来ちゃんとした人間になることを信じている」ということです。
 信じるというのは決断です。もっと言えば、賭けです。また横道にそれることになるかもしれませんが、信じるというこころの働きは、現在ではなく、過去と未来に向かっていることを確認しておこうと思います。


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