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「ほんとうの世界」? [『正信偈』を読む(その122)]

(5)「ほんとうの世界」?

 こんなとき、「あっ、だまされた」と思うわけですが、警察官が立っているように見えたこと自体は幻ではありません。見誤りであったことが後で判明しただけのことです。ところがぼくらはえてして警察官が立っているように見えたこと自体を誤りとしてしまいます。ほんとうは警察官が立っているとは見えないはずなのに、そのように見えることはおかしいと。しかし、もしそうなら、この方法でスピードの出しすぎを抑制しようという警察の発想は的外れで意味がないということになります。
 同じように、何か声が聞こえたように感じたとしても、そのように思えただけだったということもあります。幻聴というやつです。この場合も、聞こえたように感じたこと自体は幻でも何でもありません。現に聞こえたのですが、他の人には聞こえなかったというだけのことです。ところがこの場合も、そのように聞こえたこと自体が誤りだとされてしまいます。ほんとうはそんな声はないのに、聞こえるのはおかしいと。
 でも、この「ほんとうは」とは何でしょう。あたかも、ぼくらに見え、聞こえ、感じられる世界とは別に「ほんとうの世界」があるかのようです。しかし、このように見え、聞こえ、感じられる世界以外にどこにも「ほんとうの世界」などありはしません。
 いま現に本願の声が聞こえるという現場に戻りましょう。これはもう疑う余地のない現実です。ところが聞こえないという人がいる。これは不可解でも何でもありません。大森荘蔵という哲学者のことばですが、真実は「百面相」をしています。昼間みればただの板切れなのに、夜は警察官に見えるのは、どちらも同じように真実なのです。
 他の人には聞こえないとしても、「いま、ここ」で本願の声が聞こえるのは紛れもない真実です。そしてその声がこころにしみわたった。これが本願を信じるということです。この「信じる」は、あやふやではありませんし、迷いがあるのでもありませんし、ふらふらしているわけでもありません。


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