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『正信偈』を読む(その123) ブログトップ

弘誓に値いぬれば [『正信偈』を読む(その123)]

(6)弘誓に値いぬれば

 「三不三信の誨」に続いて「像末、法滅、同じく悲引す」とあり、すでに述べました正法・像法・末法の歴史観が出てきます。本願の教えは末法にだけ有効であるかのように言われることがありますが、そうではなく、どの時代にも通用する普遍的な教えであるということです。
 ここには正法ということばはありませんが、浄土の教えは、正法を含めたすべての時代において同じように衆生を導いてくれるのです。そして、その後の「一生悪を造れども」ということばにより、末法思想は機の深信と一体不可分であることがはっきり分かります。それについてはもういいでしょう。
 ここでは「弘誓に値(もうあ)いぬれば」に注目したいと思います。
 本願を信じるというのは、本願の声が聞こえるということですが、それをここでは本願に「値う」と言っています。「値う」は「遇う」と同じで、ふたつ合わせて「値遇」ということばもあります。「もうあう」と読むのは「まゐあふ」の音便で、目上の人にあうという意味ですが、ここで大事なことは「値う」(「遇う」)と「会う」の違いです。
 それについてはすでに述べたことがありますが、要点をおさらいしながら、さらに新しい光を当ててみたいと思います。
 要点の第一は、「会う」は「こちらから」出かけて行ってあうのに対して、「遇う」は「向こうから」やってくる誰かにあうということです。そこから第二に、「会う」は「そうしようと思って」あうのに対して、「遇う」は「思いがけず」「たまたま」「ばったり」あうということ。そして第三に、「会う」は「これから」あうのですが、「遇う」は気がついたら「もうすでに」あっていたということです。
 この三つは互いに深く結びつき、切り離すことができません。


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