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二重の因縁 [『正信偈』を読む(その134)]

(2)二重の因縁

 先に引用しました『教行信証』行巻の「まことにしんぬ、徳号の慈父ましまさずば、能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずば、所生の縁そむきなん」に続いて、親鸞はこう述べます、「能所の因縁(光明と名号)和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき、心のはたらき)にあらずば、光明土にいたることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名(光明と名号)の父母、これすなはち外縁(げえん)とす」と。
 光明と名号が因縁となって往生が得られるのは間違いないが、それに加えて信心が内になければ、いかに光明・名号が与えられていても往生はないということです。これは二重の因縁と呼ばれ、整理しますと次のようになります。
  一重の因縁 光明…(所生の)縁、名号…(能生の)因
  二重の因縁 光明・名号…(外)縁、信心…(内)因
 「真実信の業識、これすなはち内因とす」をうっかり、光明・名号は外から来るが、信心はわれらのこころの内に用意しなければならない、と受け取ってしまいますと、他力が一挙に台無しになります。大事なものは「向こう」から与えられるが、それを受け入れるかどうかは「こちら」が決めるとなりますと、最後の土壇場で一切が「こちら」に委ねられることになるからです。
 そこで親鸞は「正しく金剛心を受けしめ」と言い、光明・名号だけでなく信心もまた「向こう」から与えられるのだと釘を刺しているのです。さてしかし、信心という因も弥陀から賜るといわれますと、何かわだかまりが残らないでしょうか。そこで遠回りになるかもしれませんが、因ということについて考えておこうと思います、それはぼくらが普段つかっている原因ということばと同じなのかどうか。
 

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