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原因とは(つづき) [『正信偈』を読む(その136)]

(4)原因とは(つづき)

 生徒が遅刻したとき、その原因としてどんなこと言い募るかといいますと、やれ、自転車のチェーンが外れたとか、待ち合わせをしてくる友達が何ともグズで、とかいったところです。そんなとき、教師から「要するにおまえ自身に学校に間に合うように来ようという気持ちがないからだ」と一喝されるのが落ちでしょう。遅刻したってたいした事はないという気持ちが遅刻の原因だということを認めないと、納得してもらえないのです。
 こうして原因とは、何か不都合なことを仕出かした側の「こころのあり方」、「気持ち」といったものに行き着かざるを得ないようです。
 しかし、例えば大津波といった自然災害については、その原因が人の「こころ」や「気持ち」にあるとするのはいかにも無理があります。それは起こるべくして起こったのであって、「こころ」や「気持ち」の入り込む余地はなさそうです。でも、もう一歩踏み込んで考えてみますと、大津波で家を失い、家族を奪われた人にとって、天災は何ともならないということで気持ちがおさまるでしょうか。もっと高く頑丈な防波堤があれば防げたのではないかといった思いが渦巻いたとしても不思議ではありません。県や市町村は津波を甘く見ていたのではないか、市民の安全を軽視する気持ちがあったのではないかと。
 そうだとしますと、原発事故の場合と変わるところはありません。あれだけ大きな地震が起こったのだから仕方がないとはならないのです。もたらされた不幸があまりに大きく、どうにも腹の虫がおさまらないのです。おさめるためには原因を追究し、責任の所在をはっきりさせなければならない。逆に言いますと、大津波による大惨事にせよ、原発事故にせよ、起こるべくして起こったのだから仕方がないと諦めがつくときは、原因の追究も、責任の追及もありません。
 これが、日常的につかっている原因という概念です。


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