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『正信偈』を読む(その137) ブログトップ

「信心こそ往生の因」とは [『正信偈』を読む(その137)]

(5)「信心こそ往生の因」とは

 問題の「信心こそ往生の因」に戻りましょう。
 光明や名号は「向こう」から賜るとしても、それを受け止めるのはわれらの「こころ」だと言いたくなります。だから「こころのもち方」としての信心がすべての要なのだと。それは原発事故について「何だかんだ言っても、要するに、絶対に事故を起こさせないという気持ちがなかったことが原因だ」と言うのに似ています。あるいは、遅刻生徒に「つべこべ言うんじゃない、結局のところ、おまえ自身が絶対遅刻しないぞという気持ちがないからだ」と叱るのと似ています。
 一番大事なのは「こころのもち方」だということです。
 これはぼくらが生きることの原点です。生きる上で何が一番大事かと言いますと、「生きんかな」という「こころのあり方」です。これがなくなりますと、すべてがガラガラと崩れます。前にお話しましたように、「わたし」とは、この「生きんかな」という意志、ニーチェの言う「力への意志」です。「わたし」がいて、その属性として「生きんかな」の意志があるのではありません、「わたし」とは「生きんかな」の意志そのものです。その上に個々の細々とした意志が成り立っています。
 さてしかし、ここが肝心要ですが、信心とは意志ではありません。「こころのもち方」ではないのです。
 光明・名号が与えられ、それをわれらのこころが受け止めるのではありません。もしそうでしたら、向こうに光明・名号があり、こちらに信心があって、信心が光明・名号を受け止めるという構図になりますが、光明・名号に信心というものが付け加わるわけではありません。光明・名号が光明・名号として受け止められたこと、そのことが信心です。誰かの何げないひと言が「なむあみだぶつ」と聞こえたこと、そのことが信心です。


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