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『正信偈』を読む(その143) ブログトップ

臨終と平生 [『正信偈』を読む(その143)]

(4)臨終と平生

 これが平安期の浄土教であったということ、そして源信の『往生要集』はそれに明確な形を与えたということを押さえておくことで、鎌倉期に法然や親鸞が何をしたかがくっきりと浮かび上がります。
 ここにその違いをもっとも分かりやすく示した文を上げておきましょう。
 親鸞が関東の弟子に宛てて書いた手紙の一節です。「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあふて、すゝめらるゝときにいふことばなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『末燈鈔』第一通)。
 「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」―これは、これまでの浄土教に対するはっきりした決別宣言です。
 これまでの浄土教にとって臨終が勝負であり、そのときに阿弥陀仏の来迎があるかどうかにすべてがかかっていたのです。それに対して、親鸞は臨終の来迎を待つまでもなく、信心が定まったそのときにすでに往生が定まると言います。そのときにすでに来迎されているのだと。
 善導の「二河白道の譬え」で言いますと、行くも死、留まるも死、戻るも死と進退窮まった旅人の耳に「来たれ、救う」の声が聞こえたそのときが来迎のときです。阿弥陀仏の姿は見えなくとも、その手が差し延べられているのですから。身は穢土にあっても、心はすでに浄土にあるのですから。
 

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