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浄土はすでに足下にある [『正信偈』を読む(その145)]

(6)浄土はすでに足下にある

 ぼくは日本にいながら、これから行くアメリカのことで頭が一杯になっています。それは「頭」だけのことで「足下」には及んでいないと言われるかもしれませんが、アメリカ行きのことで浮き足立っているとしますと、もはや頭だけとは言えません。その意味では、ぼくは日本にいながら、すでにアメリカにいるとも言えるでしょう。
 このように考えますと、「浄土はすでに足下にある」は荒唐無稽でも何でもなく、「浄土は前方にある」の中に隠されている真理だと言えます。つまり、ほんとうに「浄土は前方にある」なら、「浄土はすでに足下にある」のです。そして、ほんとうに「浄土は前方にある」かどうかは、ゆるぎなくそう信じているかどうかです。
 もし「浄土は前方にある」かどうかに疑いが残っていたら、つまり浄土なんてあるのかどうか、あるとしてもそこへ行けるのかどうかに迷いがあったら、「浄土はすでに足下にある」とは言えません。来年間違いなくアメリカに行くと信じているから、すでにアメリカにいるとも言えるわけで、そこに少しでも疑いがあったら、すでにアメリカにいるなどと言えるわけがありません。
 「浄土は前方にある」とゆるぎなく信じることと、「浄土はすでに足下にある」ことは同じことです。
 問題は浄土が前方にあるか足下にあるかではなく、浄土があることに疑いがあるかどうかです。疑いがなければ、浄土は前方にあり、また足下にもあります。しかし疑いがあるなら、前方にあるとは言えず、ましてや足下にあるとは言えません。金子大栄氏はどこかでこんなふうに言っていました、月ははるか彼方にあるが、その光はすでにここに届いていると。


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