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見えぬけれども [『正信偈』を読む(その148)]

(2)見えぬけれども

 源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」という不思議な文を分解してみましょう。
  第一句:「わたしは弥陀の光明に摂取されている」。
  第二句:「しかしわたしは煩悩に遮られて光明を見ることができない」。
  第三句:「しかし弥陀の光明は絶えずわたしを照らしていてくださる」。
 見られるように、この文は二重否定の構造をしていることが分かります。「わたしは光に照らされている」but「光を見ることはできない」but「光に照らされている」と、二度のbutで元に戻っているのですが、素朴に疑問に思うのは、光を見ることができないのに、どうして光に照らされていると言えるのかということです。見えないのにあると分かるのはどうしてか。
 前にも引き合いに出したことがありますが、金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」いうのがあります。

  青いお空の底ふかく、
  海の小石のそのように、
  夜がくるまで沈んでる、
  昼のお星は眼にみえぬ。
      見えぬけれどもあるんだよ、
      見えぬものでもあるんだよ。
 
 みすずは「見えぬけれどもある」と詠います。


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