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「気づく」ことで、はじめて「ある」 [『正信偈』を読む(その150)]

(4)「気づく」ことで、はじめて「ある」

 では「見えないけれどもある」というのは、何か神秘的な方法で知るということでしょうか。「眼耳鼻舌身意」で知ることはできないが、それとは別の特殊な能力で知ると。しかし、そんなふうに考えることはぼくらを「オウム的なところ」へ誘い込むことになります。ぼくらが何かを知るのは「眼耳鼻舌身意」を通じてしかありません。
 ただ、こういうことは言えます、こちらから「知ろうとして知る」のと、あるとき「ふと気づく」のとは違うと。どちらも「眼耳鼻舌身意」を通してですが、前者は「見ようとして見る」のに対して、後者は「見えていることにふと気づく」のです。「こちらから」と「むこうから」の違いです。
 こちらから一生懸命見ようとしても一向に見えないのに、あるとき、むこうから眼に飛び込んできてもうすでに見えていることに気づく。こちらから耳を済ませて聞こうとしてもちっとも聞こえないのに、あるとき、むこうからおのずと聞こえていることにふと気づく。
 源信が「煩悩まなこをさえてみたてまつらず」と言うのは、こちらから見ようとしても見えないということです。一方、「大悲ものうきことなく、つねにわれを照らしたもう」というのは、そのことにふと気づいたということです。かくして、見えないが、しかしあるのだ、と言えるのです。
「気づく」ことで、はじめて「ある」ことが分かるのです。
 弥陀の光明は、こちらから見ようとしても見えませんが、でも、あるときふと気づくのです、もうすでに見えていることに。では、弥陀の光明に気づかないと、どうでしょう。そのときは、見えないとも思いません。はなから「ある」と思っていないのですから。で、あるときふと見えていることに気づいて、そのときはじめて思うのです、「ああ、これまでは見えていなかっただけなのだ」と。


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