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煩悩まなこをさえて [『正信偈』を読む(その151)]

(5)煩悩まなこをさえて

 「気づく」ことによって「ある」ようになるのではありません。もうずっと前から「ある」のです。でも全く見えていなかった。
 弥陀の光明は「こちらから」見ようとしても見えないと言いました。その理由として上げられるのが「煩悩まなこをさえて」ということです。「正信偈」の前の方(7)にもこうありました、「貪愛瞋憎(とんあいしんぞう)の雲霧、つねに真実信心の天に覆(おお)えり」と。貪愛瞋憎の雲霧がなければ、弥陀の光明を見ることができるのに、煩悩が眼を曇らせるものだから、見ようとしても見えないというのです。
 どういうことでしょう。
 前にもどこかで紹介しました森岡正博という人が書いた本に「目隠し構造」の話が出てきますが、今考えていることと重なり貴重な示唆を与えてくれます。目隠し構造とは、ぼくらの中にあって見たくないもの、それを自分だとは認めたくないものを見えないようにしている心理構造のことです。
 具体例を出すのが手っ取り早い。
 「男女の真の平等が必要だと日頃から訴えている男性の先生がいる。…彼は言う。男と女は対等でなければならない。だから、女性の諸君も、自信を持って自分の意見を堂々と言ってほしい。…で、ゼミがはじまる。先生のそういう誘導があったわけだから、女子学生たちも以前よりはたくさん発言するようになる。…しかし、そうやっているうちに、やっぱり、女子学生からの発言は目に見えて少なくなってくるのだ。先生はそれがどうしてなのか分からない。女子学生たちは、発言に慣れていないのかな。ひょっとしたら、あんまりものを考えていないのかな。そんなふうに感じたりする。」


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