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『正信偈』を読む(その157) ブログトップ

浄土真宗とは [『正信偈』を読む(その157)]

(4)浄土真宗とは

 親鸞はしばしば真宗ということばをつかいます。ここでも「真宗の教証、片州に興す」と言っていますが、これは「浄土の真実の教え」ということです。真宗と聞きますと、つい現在の浄土真宗という宗派のことを頭に浮かべてしまいますが、何度も言いますように、親鸞には新しい宗派を開こうなどという気持ちは全くありませんでした。彼は師・法然の教えを正しく伝えていこう、法然の真宗を聖道門の人たちの誹謗中傷から守りたいという思いで一杯だったのです。
 真宗を興したのは法然であって、自分としてはその真宗を人々に知らしめたいだけ。としますと、親鸞は法然と一体と言わなければなりません。つまり、『教行信証』において、親鸞は法然に代わって語っているのです。だから法然のことばを引く必要がないのです。親鸞は『選択集』からものを言っているのですから、『選択集』にこう書いてあるというのはむしろ不自然になるということです。
 因みに、この間読んだ本(島田裕巳著『ほんとうの親鸞』)に、こんなことが書いてありました。『教行信証』は経釈の引用で埋め尽くされているのに、法然からの引用がほとんどないのは不可解だと。これはぼくと同じ疑問ですが、そこから親鸞が法然から『選択集』の書写を許されるほどの高弟であるというのは疑わしいというのです。さらには親鸞が越後に流罪になったことまで疑わしいというのには驚きました。
 学者がこれまでの通説に疑問を呈するのは当然であり、それによって学問が前に進むのですが、しかしそれには確かな根拠がなければなりません。この本は、大胆に推理するのはいいとしても、残念ながら人を納得させるだけの力がありません。


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