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『正信偈』を読む(その159) ブログトップ

源信と法然(つづき) [『正信偈』を読む(その159)]

(6)源信と法然(つづき)

 源信は自ら念仏を選んだその理由について、こう述べています。
 「問うて曰く、一切の善業、おのおの利益ありて、おのおの往生を得。何が故ぞ、ただ念仏一門を勧むるや。答へて曰く、今念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮(しゃ)せむとにはあらず。ただこれ男女貴賎、行住坐臥を簡(えら)ばず、時処諸縁(じしょしょえん、いつでもどこでも)を論ぜず、これを修するに難(かた)からず、ないし臨終に往生を願求(がんぐ)するに、その便宜を得たるは念仏に如かざればなり」。
 数ある行の中でどうして念仏を勧めるかというと、誰にとっても、いつでも、念仏ほど易しいことはないし、とりわけ、臨終において念仏なら誰でもできるからだと言うのです。
 ところが法然は、『選択集』で、この源信のことばを引いた後、こう言います。
 「故に知んぬ。念仏は易(やす)きが故に一切に通ず。諸行は難(かた)きが故に諸機(しょき、さまざまな人)に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか」と。そして「もしそれ造像起塔をもつて本願とせば云々」という有名な一節がそれに続くのですが、それはもういいでしょう。
 念仏を選んだのは法然ではなく、弥陀如来なのです。
 往生のための行として何が適当かと考えると、「男女貴賎、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず」に行えるのは念仏だから、念仏に勝る行はない。これが源信です。それに対して、弥陀の本願は「一切衆生をして平等に往生せしめむ」ことにあるから、「難を捨て易を取りて」念仏を選んでくださった。これが法然。
 ここに源信と法然の違いがあります。


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