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『正信偈』を読む(その162) ブログトップ

疑うということ [『正信偈』を読む(その162)]

(2)疑うということ

 さてしかし、ぼくらにはどこまでも疑いというものがつきまといます。生きることは疑うことだと言っていいほど、疑いから解放されることはありません。「わたし」とは「生きんかな」とする意志のことでした。「わたし」が「生きんかな」とする意志を持つのではありません、「生きんかな」とする意志そのものが「わたし」なのです。そして、「生きんかな」と意志するとき、あらゆるものごとを疑わなければなりません。これは生きることにつながるのか、それとも死ぬことにつながっているのか、一つひとつ疑ってかからなければなりません。
 ぼくらは「人を見たら泥棒と思え」ということばを笑いますが、でも初対面の人と会うとき、まず疑いからスタートします、「この人は信用できる人だろうか?」と。で、いろいろな角度から吟味して、まあ信用してよさそうだとなり、それからはもう疑わなくなります。でも疑いのこころが眠りこんでしまったわけではありません、いつでも出動できるように態勢を整えています。疑いのこころがすっかり緩んでしまったら、真っ先にオレオレ詐欺の餌食となってしまうのです。
 こんなふうに疑って、疑って、まあ大丈夫だろうとなってはじめて信じるのです。ということは、疑うことと信じることは一卵性双生児だということです。同じ顔つきをしているのです。これは前に検討しました易行・難行と事情がよく似ています。易しいと難しいは正反対ですが、でも、これは易しいか、これは難しいかと分ける手つきは同じです。二つの箱を用意して、はいこれは易しい箱へ、はいこれは難しい箱へと次々に仕分けをするとき、入れる箱は別でも、入れる手つきは同じです。
 疑うことと信じることも、二つの箱を用意して、はいこれは疑う箱へ、はいこれは信じる箱へと仕分けをすることです。


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