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疑うこころと信じるこころはひとつ [『正信偈』を読む(その163)]

(3)疑うこころと信じるこころはひとつ

 疑うこころと信じるこころが二つあるのではありません、ひとつのこころが、これは疑うべし、これは信じるべしと命じているだけです。考えてみますと、対概念というものは、同一平面上になければなりません。大と小、重と軽、高と低など、どれも同じ平面にあって、一方はその右側、他方はその左側という具合に分けられるのです。平面が別では対になれません。
 疑うことと信じることは同一平面上にあるということです。
 としますと、どれほど本願を信じると言っても、どこかに疑いが残っているということになります。信じるか疑うかはあくまで相対的だということです。しかし法然が「生死の家には、疑ひをもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」と言うとき、そのような相対的な信のことを言っているのでしょうか。あるいは親鸞が「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」と言うとき、どこかに疑いが残っているような信のことを言っているのでしょうか。
 そうは思えません。
 疑うのは「わたし」でした。「わたし」が「生きんかな」と意志するとき、どんなことであれ、まずは疑ってかからなければなりません。そうしなければ、あっけなく死に至ります。このように「わたし」がさんざん疑ったのちに、ようやく信じることができるのですから、信じるのも「わたし」です。「生きんかな」の意志が「これは信じていいぞ」とお墨付きを与えるのです。これはしかし「生きんかな」の世界の話です。それに対して「涅槃の城には信をもつて能入とす」とか「たとひ法然聖人にすかされまひらせて云々」は、「生かしめんかな」の世界のことばです。

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