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いまここにあるのとは別の世界? [『正信偈』を読む(その164)]

(4)いまここにあるのとは別の世界?

 「生きんかな」の世界と「生かしめんかな」の世界。「わたし」は「生きんかな」の世界にいます。というより、「わたし」とは「生きんかな」とする意志そのものです。しかし、その世界にどこかから「生かしめんかな」の声が聞こえてくるのです。そしてそれが胸に沁みる。これは全く「わたし」のあずかり知らぬことです。
 「わたし」はただひたすら「生きんかな」としているだけですが、そこに「生かしめんかな」という不思議な声が聞こえてきて、どういうわけか、腹の底からじんわり喜びを与えてくれる。これが法然や親鸞の言う信です。これは「わたしが与える信」ではありません、「向こうから与えられる信」です。
 「向こうから与えられる」と言いました。あるいは「生きんかな」の世界と「生かしめんかな」の世界などという言い方もしました。しかしこれは「いまここにある世界」とは別の世界がどこかにあるということではありません。いや、そう考えても差し支えありませんが、たとえそんな世界があるとしても、それが「いまここにある世界」と何の関係もなければ意味がありません。
 いまの場合、現に「向こうから与えられる」という関係、「生かしめんかな」という声が聞こえるという関係があるのですから、それを別の世界にもっていく理由はありません。それは「いまここにある世界」の中でのことです。
 かけがえのない人を亡くしたとき「あの人は亡くなったけれども、決して消えてしまったわけではない、あの人がいることをまざまざと感じているのだから」と言います。こんなとき「あの人」はどこにいるのでしょう。「いまここにある世界」とは別の世界にいるのでしょうか。


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