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この世とあの世 [『正信偈』を読む(その165)]

(5)この世とあの世

 「あの人」は「いまここにある世界」(この世)とは別の世界(あの世)にいると言ってもかまいませんが、「あの人」をまざまざと感じているのは「いまここにある世界」ですから、わざわざ別の世界に移し変える必要はないでしょう。「あの人」は「いまここにある世界」にいるのです。もちろん「生きている人」としてではなく、「死んだ人」として。
 「生かしめんかな」の声が「向こうから」聞こえるというときも、その「向こう」を「いまここにある世界」とは別の世界と考える必要はありません。「いまここにある世界」で聞こえるのですから。じゃあ、どこから聞こえるのかと言われても、「向こうから」としか言えませんが。
 それは、亡くなった人はどこにいるのかと言われても、「その辺りに」としか言えないのと同じことです。三次元空間の中の位置を言うことはできませんが、でも、空間上の位置をもたないものなどいくらでもあります。「愛がある」というとき、その空間的な位置を言うことができるでしょうか。
 「生かしめんかな」の声が聞こえないと、いつまでもこの「生死の家」にとどまらなければなりませんが、その声がふと向こうから聞こえたら、そのとき直ちに「涅槃の城」に入ることができるのです。
 「生死の家」とは別に、どこかに「涅槃の城」があるわけではありません。「生かしめんかな」の声が聞こえたとき、「生死の家」を離れて「涅槃の城」に移るのではありません。「生死の家」が、そのままで「涅槃の城」なのです。

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